亜人間都市『語りえぬもの』インタビュー 01(後編)
〈作・演出〉黒木洋平
聞き手:朝倉憩
2017年9月4日 新宿区内稽古場
『語りえぬもの』ドキュメント、インタビューシリーズ。
インタビュー第1弾は、前編に引き続き作・演出の黒木洋平さん。
以前は演劇以外の方法での表現もしていたという黒木さん。
後編では彼の、制作活動への動機に迫ります。演出の方法についての興味深いお話も伺いました。
前編はコチラから ▶︎▶︎▶︎ 亜人間都市『語りえぬもの』インタビュー01 (前編)
「僕は、自分が感じていることと同じことを感じている誰かが、この世界のどこかに存在していると信じている」
──これは私自身の話になりますが、私が何か活動を行うときには、そこに目的というか、そのための明確な動機のようなものがあります。そしてその場その場の状況に合わせる形で、演劇だとかそれ以外だとか方法を変えています。黒木さんにもそうした活動の根拠となる目的みたいなものがあれば、お聞きしたいです。
そうですね、目的……あると思います。とりあえず、僕も演劇じゃなくてもいいと思ってます。今のところ一番上手くやれる方法だと思っているから演劇を選んでいますが、でも何か演劇ではできないことがしたいとなったら、演劇は選ばないと思います。実際、前は映画を撮っていたし、その前は小説を書いていたので。なので演劇でやるにしても、別のメディアでの表現の可能性がある中でやろうと常々思っています。演劇である必然性を常に探すというか、それを考えなくなったら終わりだなっていう。
──ちなみに、演劇を始めた理由はなんですか?
演劇を始めた理由は……面白い理由と、真面目な理由があります。
──面白くなかったら許さないですよ。
許してください。面白いほうの理由から話すと、なんで始めたかというと、上京前のことなんですけど、母親が松山ケンイチのインタビューか何かを読んだみたいで、松山ケンイチが高校卒業後すぐ上京して俳優になったというので「上京するならあんたも役者になれば?」と言われて、「マジか。じゃあやるわ」って感じで、ノリで演劇と映画を始めました。
──嘘でしょ……(笑)
嘘ではないです……で、真面目な理由としては、そもそも小説を書きたくて大学進学を目指していたので、大学では、小説を書くのにタメになりそうなことを始めたかった。でも、小説を書きたくて文芸サークルに入るのは、なんだか違う気がして……。というのは、小説しか知らない人になってしまいそうというか、そういうイメージがあって。なので、違うメディアの演劇と映画を始めました。
──小説のためだったんですね。
そうですね……今はもう書いてませんけど。とにかく、演劇が好きだからやってるっていうのではないです。なので「演劇が大好きで演劇やってます!」っていう人は、僕にはよく分からないです。いや分かるけど。僕も別に演劇は好きだし。でも好きだからとかじゃないところにあるモチベーションでやってます。そんな中で演劇が続いている理由は、それも大したことはなくて、形になるからっていう。例えば映画だと、撮影だけして編集せずに終わるとか、キャストが見つからなくて企画だけで終わるとか、辞めるタイミングが多かった。でも演劇は、やると決まったら逃げられない(笑) 形になるっていうのは重要ですよね。形にならないことには先に進めないから。そうこうするうちに、演劇が一番上手くやれる方法になっていたので、いま演劇でやってます。
──なるほど……そうすると、小説を書き始めた理由に、表現への根本的な動機がある……ということでしょうか?
そうかもしれません。でも、小説を書いていた頃の自分は本当に若くて、なんというか世界への憎悪で書いていたというか、「俺は小説を書いて人を殺すんだ!」みたいな感じだった(笑) ゲーテが『若きウェルテルの悩み』でやったみたいに「俺もたくさん殺すぞ!」ていう(笑)
──それは若いですね(笑)
はい。まあ別に今更恥ずかしくもないですけど、そんなことを思いながら書いていて、で今は「世界って良いよね」みたいに思っているし、憎悪って感じじゃないです。じゃあ何を根拠に書いているのかというと……でもやっぱり昔と同じなのかもしれません。「思ったことを書く」っていう。
昔だったら、何か苦しいこととか辛いこととか、思っているんだけど言えないことがあって、誰にも言えないから、小説にするしかなかった。今だともうちょっと違って、社会の空気だとか価値観だとか、「こうである」とされているものに対して、自分が実際に感じていることにギャップがあるのを感じたときに、それを形にしなきゃって思って、そのギャップから作品を作ろうとしてます。そういうものが、言葉と身体とか、形のあるものと形のないものとか、意識と無意識、わかるものとわからないもの、みたいな対立と重なって出てくる、っていう。
で、僕はそういう社会と自分とのギャップを感じたときに、「みんなもホントはそう思ってるでしょ?」って思うんですよね。なんていうか……あー、だからこう表現したほうがいいかもしれない。僕は、自分が感じていることと同じことを感じている誰かが、この世界のどこかに存在していると信じている。でも、そいつは自分だけだと思っていて、自分が間違っているんだと思っている。で、僕はそいつに「お前だけじゃないよ!」って伝えようとしてやってる。っていう感じです。逆を言えば、自分が独りじゃないことを確かめたいっていうことなのかもですけど……まあどちらでもよいです、そこの関係性を明らかにしたくてやってます。
……えっと、そういうのないですか……?
──あるかないかで言えば……あります。でも、分からないままやるのは怖いというか、私なら「ひとりじゃない」っていうことの確信を得てからでないと何もできないと思います。何もなくやるっていうのは、なんというか、心が強くないと難しいのでは。
そうですね。だから確信は……その意味で言うと、今はあります。昔は何も確信が得られないまま、孤独と不安の中をひとり戦ってる感じでした。「継続は力! 大丈夫大丈夫!」って自分に言い聞かせてやってました。心強かったですね(笑) でも今確信があるっていうのは、単に技量が上がったからだと思います。技量が上がって、ある程度届くようになって、そのことを実感できているから、今はそこまで不安ではないですね。これからのこととか、お金のこととか、別ことを不安に思う余裕が出てきました。
「僕は、会話っていうのは存在していないと思っています」
あ、でも上手くいかない時は相変わらず孤独です。あと、書いてる時も孤独。人に読んでもらう段階になるともう大丈夫なんだけど、書いているその間は本当に孤独です。何か分かりやすい基準に沿って書いていれば、もうちょっと安心しながら書けるのかもしれませんが、今回とか特に、面白いとは思っているんだけど、自分でも見たことがないようなものを書くことになったので、そこで面白さを信じて書くしかないっていうのは、本当に孤独でした。
──途中で誰かに見せるということはしなかったんですか?
今回はしていません。でも仮にそうしていたとしても、結局孤独なのは変わらないと思います。それが書くことの本質なんだって思いました。劇作家って孤独なんだなって……いやホント、書いてる時は胃が痛かった……。
──それに比べれば、演出作業でのすれ違いなんて全然苦しくない、という感じでしょうか?
演出は楽しいです。楽しくて楽しくて仕方がない。今は特に、前よりも演出のやり方がはっきりしているので。昔は説明の言葉を持っていなかったから、言っても言っても通じなくて苦しかったんですけど、今は割と通じてるので大丈夫です。もちろんまだ言葉が通じないことはあって、全くわかんない、みたいな顔を俳優にされるんですけど。そんときは「ホントごめんね……」って感じです。
──稽古場を見学させてもらった際の印象としては、言葉が通じているというよりは、互いに言葉が通じているのかいないのか、という間でやり取りをしているように感じました。
どうだろう。僕はそうは思わなくて、割と通じている気がしています。もちろん、それは僕がそう思っているだけなのかもしれませんが、それでも通じていると感じるし、少なくとも分かってくれているかどうかくらいは分かっているつもりです。でも、裏で何か言われてたらどうしよう……「あいつ何言ってんのか全然分かんねぇんだよな。でも分かった顔してりゃ安心するからチョロいわ」とか言われてたら……。
──後で聞いておきます。
やめてください。怖い。
でもそういう風に本当のところが分からないのが人と人とのコミュニケーションだと思います。
──作品の中のキャラクター達も、お互い面と向かっては話していないというか、会話になっているようで会話していないというか、そんな感じがします。
『かもめ -越境する-』より舞台写真(撮影:吉田達也)
向き合っていないだけでなく、客席を向いたまま会話するキャラクターたち。
そうですね。僕は会話っていうのは存在していないと思っています。単に互いに独り言を喋っているに過ぎないというか、そういうものだと思います。問題は、それを第三者が見たときに「会話」に見えるというか、「何らかの交わりがある」っていう風に見えることにあるんじゃないかと思っています。そこにポイントがあるんじゃないかと。だから観客っていう第三者が必要になってくる。
──そう聞くと、ああいう形になるのは自然に思えます。
どうなんだろう、こういうことを他にやっている人はいたかな? 色んなものに影響を受けているので、自分と他のものとの差がよく分からない。
──やり口の見た目として、似たような試みをしている人がそんなに多いようには思われませんが。
昨年はチェルフィッチュに似ているのをひたすら言われました。
──チェルフィッチュ的って言いやすいですからね。
昨年の作品に関しては、差異みたいなのをばっちり見せれていなかったので言われても仕方ないかなとは思います。ただまあ便利な言葉ですよね。普通に芝居してないのをチェルフィッチュって言うなら、普通に芝居しているのはぜんぶ青年団って言えちゃうじゃんってくらいの暴論になりかねない。なので貰う言葉として信用していないのは確かです。
僕にとってチェルフィッチュの存在はもはや大前提なんですよね。演劇にチェルフィッチュがいなかった時代を知らないので、ネイティブ世代というか(笑) 彼らが切り開いたものを100%鵜呑みにするわけでもないですが、「乗り越えなきゃ」みたいな意識は全くなくて、それが当たり前な上で俺は何をしたいのか、ていう。
──なるほど……では、最後に一つ聞きたいのですが、私が稽古を見せていただいているなかで、動きに対して説明を求めることが多かったように思えました。動きを全て言葉にするよう促しているようでしたが、そこにはどういう意図があるのでしょうか?
今は形を作ることをしています。俳優は、自分でも自分がどういうイメージを持っていて、それをどこまで表せているのか分かっていなくて、なので見ていてよく分からなかったところを伝えて、説明してもらっています。で、説明してくれたイメージと実際に出てきているものとの差を伝えたら、あとは勝手にそのギャップをどんどん埋めてくれるので、とにかく質問して、説明してもらうのの繰り返しです。
でも形が出来てくると、今度はそこから離れるというか、「その形じゃないところにたどり着くかもしれない」っていう分からなさのなかで表現できるようにやっていこうと思ってます。まだまだ作っている途中ですし、ムラもありますが、もっともっと良くなると思います。
──なるほど……たいへん興味深いお話が聞けました。まだまだお聞きしたいことはありますが、時間の都合上、ここで終わりにしたいと思います。ありがとうございました。
はい、ありがとうございました。