亜人間都市『語りえぬもの』稽古場レポート 02
朝倉憩 2017/09/29
『語りえぬもの』ドキュメント、朝倉憩さんによる稽古場レポートシリーズ。
第2弾となる今回のレポートでは、稽古前にいつも行うワークについて分析されています。
日常における豊かさとは何か。それを語るとはどういうことか。
9月19日
毎回の稽古の始まりに、自分の「今日朝起きてからの出来事」を話すというメニューがあり、演者たち一人一人とそれから演出の黒木もそれをやる。内容としては、今日の起床からこの稽古場に来るまでの経緯を、場合によってはその前後の事情を含めて、各々が自由に話す。何時ごろ起きて、今日の朝ご飯はなんだったか。今日はどんな気分の日か。ここに来るまで、どんなことに遭遇し、なにを思ったか。
実は私も以前、6月のワークショップでこれをやらされたことがある。しかしそのとき、驚くほど出来なかったのだった。朝起きてから? ……起きた。何も食べてない。一番手前にある服を着た。そのままバイトに行って、普通に仕事をこなして、ただ終わりがけに早引きに失敗したので遅刻してきました、スミマセン。……結果五分と持たず、回想の内容が今この瞬間に追いついてしまうという事件が起き、呆れられたことを思いだす。見かねた黒木氏がコメントを入れる。「バイトは何してるの」「銀座の画廊ですね」「どうやって銀座まで行ったとかは」「電車です」「それはなに線」「千代田線、あ、珍しく電車で音楽を聴いていました」「なにを聴いてたの」「アジカンの新しいやつ、あとスーパーカー」私の意識の底に沈んでいた生活の密度は、こうして他人からの質疑によって誘導的に起死回生されていったわけだけれど、なるほどこのようにして拾い上げられる情報たちを、黒木は「生活の豊かさ」と呼んだ。
豊かさ。ここではそれは、数値化できる裕福さや多忙さといった、いわゆる物理的な充実度のことではない。そうではなくてそれは、本人がどれだけ日々の出来事を自覚しているかという、単位の無い尺度のうちに測られる。前回のレポートで述べたように、この稽古場において「言葉にする」ことを強く求められている俳優たちは、毎回このメニューをこなすことで、着実にそうした種々の要素を拾い上げる能力、そしてそれを言葉によって自分の中に構築していく能力を、培っていっているようである。
そんな無数の、個人の日常を満たしている事象の存在であるが(私はどちらかというとそれらを量子論的なものとして放っておく派なのだけれどそれはまあいいとして)、そもそもその大半は、本人にしか知りえない情報である。つまり、彼らが聞き手に語る話には、ほとんどまるで検証可能性がない。よってここで問題にされているのは、それらの言葉たちがどれだけ実際の朝の様子に忠実であるかということでは当然なく、むしろ何がピックアップされたのか、それどころか(言わずもがなではあるが)、どのように話されているかという表面的な部分における質の如何でしかない。ゆえに、この「朝起きてからの出来事を話す」のメニューは、見かけこそいかにも個人的だが、ドキュメントではなく、明らかに典型的な「物語」の様相を呈している。ところで私たちは、語るべき出来事を選べば選ぶほどに記憶を賑やかにしていく一方で、それに比例するかたちで、語りに際して選ばなかったものをも、無限に生んでいく。だから、恣意的な「物語」とは、「豊かさ」とは、その裏側の並行世界にある「語られたかもしれない」事象たちを想起させるがために、不可欠な存在と言える、ということなのかもしれない。俳優たちの口から紡がれるささやかな日常のワンシーンは、それを天文学的な規模で上回っていくあらゆる可能性を暗示している。そうか、ということは、上の如く私がそもそも語ることを諦めていたのとは対照的に、彼らはそれを語ることを義務付けられているわけで、それは普通の生活の延長上での試みではないのだ。語りえぬことは語れない。それでもそれを語ることを、むしろひとつの機会として許されていると言えるのでは……
それにしてもどうしたって、彼らが明快に語る日常の話は、私の味気ない毎日とは全然違って、圧倒的に面白いものであるように聞こえるものである。「隣の芝生は青い」なんてことを言われてしまえばそれまでだけれど、そんな「豊かさ」について思いを馳せてみれば、物語の効用というのは、憧れや嫉妬や夢を裏返したところの、ある種の鏡のような性質を持ったものであるのかもしれないな、と、楽しげなこの稽古メニューの様子を見ていて漠然と感じたのであった(各自の話の途中では往々にして爆笑が起こったりするので)。
……次回へつづく