top of page

亜人間都市『語りえぬもの』稽古場レポート 03

 朝倉憩 2017/10/01

『語りえぬもの』ドキュメント、朝倉憩さんによる稽古場レポートシリーズ。


第3弾となる今回のレポートでは、観客として亜人間都市を観る際の所感について書いていただいています。

​着目されたのは、「視線」と「会話」というワードについてです!

アンカー 2

9月19日

 

 観客である私と、舞台上の彼ら役者たちは、コミュニケーションの埒外の関係にあるというのに、昨今の演劇ではよく、役者がこちらを見つめてくるという演出がある。たまたま目が合うというレベルではなくて、明らかに観客一人一人の顔を意識的に覗き込んでくるようなもの。個人的には、実は私はこの手のものがやや苦手であり、これに遭うと大抵は目を逸らしてしまうか、いっそ負けじと目を見張ったりするなど、少なからず、余裕を持った自然体でいることを損なってしまう。今や様々な言い方が可能かもしれないけれど、つまり私たちはそれぞれ、立場が、というよりは存在している場所が、根本的に異なるのである。パフォーマーと観客は、たとえ物理的には同じ高さの地面に立っていようとも、決して同質の居並び方をしえない。舞台という特別な時間を介すると、先程まで同じ秩序の中に属していたはずの私たちは互いに、どうも、面と向かって話し合うことのできるような関係性を失うようである。この現象は、現実とは別の「物語の流れる時間層」を幻視するための装置としての、大切な約束事なのだと解されることが現代では多い。それゆえ、このような前提を覆したり、メタに扱ったりする試みは今日多く見られるように思う。「俳優が観客と視線を交わす」というこの方法はまさしくそれの一種に違いなく、例えば舞台上の第四の壁を取り除いてその空間を拡張したりだとか、あるいは逆パノプティコンの匿名性に興じる観客たちの特権を不意に剥奪したりするのに、有効なのであろう。

 しかし私がそうした演出を苦手に感じる理由は、むしろそれが、別段、演劇に固有のやりとりというわけではないという点にあるかもしれない。こうして目線が合わさることで、世界を観察する意識を、自分一人だけが持っているわけではないことに急に気付かされる瞬間。同時ににわかに喚起される、両者の脳内における相手への加速度的な推察・イメージの連鎖の、そのままならなさへの不安。単純に、そもそも目線を合わせることというのは、それが舞台上で行われる際に生まれる効果の以前に、何より現実の生活の中で、いつでもコミュニケーションの問題の端緒なのである。相手が、他ならぬ私について何を考えるのかということ、そしてそれをこちらが知ることにすら、私は成す術を持たないのだと自覚する最初の瞬間たる、「目が合う」ということ。

 それは当然、自分自身の側だけに沸き起こる感覚ではないはずなのである。先日行われたインタビューの中で、出演者のひとりである藏下が、以下のように述べている。

 

 「だからお客さんの反応を見たいですね。それがすごく反映しそう……というか、それを反映させなきゃいけない。お客さんがどう思うかはわかりませんが、自分が何かしたことに対する反応を、生でちゃんと見てからやる、みたいなのが大事なんだろうなって。」

「『語りえぬもの』インタビュー 02 藏下右京」2017年9月23日

 

 これほど明確に、役者が観客の意識に関心を持つということが重要視されているとなれば、前述の目線に関するやりとりが、やはり相互的にちょっとした効力を発揮しているであろうと考えて良さそうである。

 今作『語りえぬもの』では、稽古のかなり初期の段階から既に、演者たちは「観客に向かって話す」ようにという指示を受けているようである。稽古中、彼らの視線は、部屋の片隅に座る私のほうにもしきりに向けられる。彼らはひたすら、私との意思の疎通を随時確認するかのように度々こちらを見ながら語るのだけれど、しかしいくらそうされようとも私には、彼らが実際にその瞳の奥で何を考えているかを知ることはできない。彼らの意識がこちらに向いていることは分かるものの、彼らの語っていることの「本当」を、自分が解せているようにはとても思えないのである。だからせめて、ただその発話、身振り、表情、そして話の内容といった、彼らから読み取り得る、親切に一義的であるとは決して言えない種々の情報たちに、耳を傾け目を凝らすことになる――これはほとんど、会話することの原初的な作業に近い。普段の生活においても、往々にしてコミュニケーションは視線を交わす・相手を見ることで開始するが、それは、完全な正しさを持った疎通と理解というほとんど有り得なものへの希求の始まりでもある。誰かに何かを語ることの不可能性への、「モノローグの失敗」(ステージナタリー「演劇ユニット・亜人間都市が、『語りえぬもの』を通して時代を見つめる」2017年9月18日)を掲げる今作において、それでもなお断行する彼らが語りかける先というのは、どうやら他ならぬ私たち観客であるのかもしれない。しかし彼らは、同時に舞台上の身体という非日常性を持ち合わせているために、その場所ではどこまでも独りであり、そのためやはり、その語りは、対話の範疇を超えた独白の相を強く持ち合わせているように感じられる。

 

 あるいはまた、私たち観客と彼ら役者との会話であるかのように見えるということの前に、そもそも作品の物語中での、登場人物たちの会話・対話という体裁に、着目する必要があるはずである。まずは以下のコメントを見て欲しい。

 

 「今回の作品は会話劇なんですけど、でも会話劇ではない(笑) 会話劇を、会話を否定している、ていうか。人と人が会話してるときに相手が考えてることなんて、本当は一切わかんないじゃん、っていうのを表しているのかな、ていう。」

「役者・水川瑞穂のこと」2016年8月26日

 

 こちらは、今作にも出演する俳優・水川の、第三回公演『神(ではない)の子(ではない)』に際してのインタビューからの引用である。過去作にその徴候を認めることから始めるわけであるが、本ユニットの公演ではしばしば、台詞の上では会話の体裁をとっているにもかかわらず、舞台では人物同士がまるで別々の方向に向かって喋るというような、奇妙な「会話」のシーンが際立つ。彼らは、互いに視線を交わすことなく、およそナチュラリズムからは程遠い不可解な挙動を伴いながら発話をするものだから、宛先のおぼつかぬ言葉が宙を舞うことになる――亜人間都市の作風を外見から述べるときには誰もがこのような部分を取り上げるのでは、と思われるほどに、そのビジュアルはなかなか衝撃的である。さて、ここで注目されるべきはやはり、「会話」あるいは「対話」という要素であろう。このような水川による所感に対する、応答のようなかたちで、演出・黒木のコメントを先日のインタビューの中に参照できる。

 

 「僕は会話っていうのは存在していないと思っています。単に互いに独り言を喋っているに過ぎないというか、そういうものだと思います。」

「『語りえぬもの』インタビュー 01(後編) 黒木洋平」2017年9月4日

 

 黒木は「会話」の正体を、独り言の応酬のようなものと表現する。また、これはインタビューの時間外に語られたことであるが、彼曰く、言葉によるやりとりは、実際には相手にほとんど効果を及ぼさない。言わば自己完結した一人の人間同士が、あくまで表面上での情報交換をしているだけなのであり、新情報と思われるものを相手の言葉に見出せればそれを検討もしようが、基本的には互いに元の状態を保ち続けるのである、と。そう考えるとすれば確かに、その内実は「『会』話」や「コミュニケーション」といった名称の、親密な印象とは乖離したものであるのかもしれない。

 

 「問題は、それを第三者が見たときに『会話』に見えるというか、『何らかの交わりがある』っていう風に見えることにあるんじゃないかと思っています。そこにポイントがあるんじゃないかと。だから観客っていう第三者が必要になってくる。」

 

 ある種の判定者の介入によって初めて、両者が「会話」の状況に置かれる――逆に、もしその様子が、とても会話をしているようには見えない外装をしていたとして、二人の「会話」を証明することなど一体誰にできようか。例えば亜人間都市の会話劇。そこにコミュニケーションがあることに対し不信を抱く私たちの言い分は、単にその見た目に基づいているのに違いないのである。また、対話と独白が表裏一体であることの可能性は、こうした作品が、まさにその場に観客を必要とする演劇という手法を用いて表現されることへの、一つの必然性にも繋がるだろう。

 

 ところで、いま私たちが黒木によるこれらの発言の中に認めるものは、ここで語られている、見た目のイリュージョンにまつわる話を超えているのではないか? 再び立ち返るべきは、先に述べてきた私たち観客と役者との「会話」に似た対面関係であろう。いくら彼らの虚構の身体が、少なからず現実との二重性を持っていようとも、両者の間には後退し薄膜となった第四の壁の残影がまとわりつく。種々の次元の違いが、名状し難いディスコミュニケーションを生み出す。こちらがどんなに錯覚に襲われようとも、元より観客と演じる役者との間に、見かけを超えた会話など成立するわけがないのである。亜人間都市の奇妙とも言える発話と身振りは、語りえぬ、そして語りかけえぬことに対しての、あるいは私とあなたを隔てる目に見えぬ膜の絡みつきに対しての、藻掻きの表出であるのかもしれない。そして、それを唯一貫くのが、日常における会話の名残を湛えた、物言わぬ視線だけであるとするならば、私たちは、彼らの容赦ない視線を受け入れてみるのも悪くないのではないか。そんなことを思った。​

アンカー 1

【パノプティコン】ベンサムが考案した一望監視型の監獄モデルのこと。中央の監視塔から監視のための光線を送り、その周囲に造られた収容施設の各室を監視することができるが、独房の囚人たちからは監視者を見ることができない。フーコーは近代社会の管理システムをこれに例えた。 逆パノプティコンとは、それとは逆の構図を指す。言わば囚人の立場にあった者が逆に監視者を監視するような状況のこと。しばしば演劇の文脈で用いられるのは、人数的に優勢な側の者たちが比較的劣勢である他方を光線(スポットライト)の元に一方向的に眼差す様子を、舞台上の俳優と観客席の関係に応用できるためであろう。

亜人間都市『語りえぬもの』

2017年10月6日 - 9日 於 早稲田小劇場どらま館

 公演特設ページへ

『語りえぬもの』ドキュメント
bottom of page