亜人間都市『語りえぬもの』インタビュー 01(前編)
〈作・演出〉黒木洋平
聞き手:朝倉憩
2017年9月4日 新宿区内稽古場にて
『語りえぬもの』ドキュメント、インタビューシリーズ。
インタビュー第1弾は、亜人間都市の主宰であり、今作の作・演出をつとめる黒木洋平さん。
前編では今作とサミュエル・ベケットの関係、そしていままでとこれからの制作活動について、お伺いしました。
後編はコチラから ▶︎▶︎▶︎ 亜人間都市『語りえぬもの』インタビュー01 (後編)
「表面的には見えなくなったが、内側には僕なりのベケットが詰まっている」
──それではまず、今回の作品で試みていることをお伺いしてもよろしいでしょうか?
今回はベケットをやろうと思っていました。ベケットの演出をしたかったということではなくて、劇作家の欲望として、ベケットみたいなものを書きたかった。もっと言うと「ベケット作品の二次創作」を目指していたんですね。でも、ちょっと無理でした。無理というか、「ベケット作品の二次創作」にはならなくて、もうちょっとオリジナルなものになりました。
──私は企画書を拝見させていただいたのですが、その時点ではベケットを意識されている旨を書かれていましたね。
はい。最初はそうだったんですけど、書けなくて。なんで書けなかったかというと、後期のベケットがやろうとしていることとして、「解体」の方向に突き進んでいる感じがあって、それをとても面白いとは思うんですけど、同じことをやるには単純に難しすぎた。2ページ、3ページ書いたところで手が止まってしまって。
──それは、ベケットと同じやり方で戯曲を書こうとした、ということですか?
そうですね……でも無理でした。それはベケット作品の見かけを真似しようとしていたからなんですけど。僕は、プロットなしで書こうとしてたんですね。設計図ナシで。でもそれじゃ無理で、やっぱり最低限のプロットは必要だった。ベケットも、きっとそんな書き方はしていなくて、流石にプロットはあったんじゃないかなあ。数学的とまで言われるほどなのだし。
──でも確かに、ベケット作品を読んでいると、しっかりとしたプロットがあるというよりは、連想で書かれているような印象がありますよね。
全体の構造はともかく、一文一文の繋がりはそういうイメージがあります。特に後期作品はそう見えます。『名づけえぬもの』も近い感じはありますが、小説三部作の中でも『モロイ』や『マロウンは死ぬ』ではもう少しわかりやすく話に筋と構造があります。ベケットから借りたかったのは、中期 - 後期ベケットに見られるような強力な「解体」ではなくて、もちろんそれも面白いと思っていたのでその空気は欲しかったんですが、どちらかというと興味があったのは前期ベケットの物語とモノローグのバランスでした。ひとりでつらつらと喋ることと、全体の流れのバランスが、特に『モロイ』を読んだときは感動しました。ベケットの中では一番有名な『ゴドーを待ちながら』は、実は僕はあんまり好きではなくて。構造はとても面白いんですけど……なんでだろう、会話してるからかな?
……ともかくそんな感じで「ベケット原作」っていう形ではなくなったのですが、僕としてはベケットをやっているつもりです。表面的には見えなくなったが、内側には僕なりのベケットが詰まっている。それは僕の思うベケットなので、他の人が見てベケットと思うかどうかっていうのは分かりませんが。
──そうしたことは俳優と共有したりしていますか?
雑談程度に話すことはありましたけど、共有っていうほどじゃないかなぁ……少なくともベケットの名前を殊更に挙げて話したりっていうのはなかったはずです。ベケットの問題意識みたいなのは、何度か話していたのですが。
──そこでのベケットの問題意識というのはどのようなものでしょうか?
ベケットの十八番じゃないですけど、よく2回繰り返すんですね。『モロイ』は、1部はモロイが母親を探して旅に出る話で、2部はモランがモロイを探して旅に出る話です。「ゴドー」も1幕と2幕で、起こることは違うんですけど、同じ構造がくりかえされる。あとはゴドーが出てこない、みたいな中心がない……中心の不在、という構造があって。そういう作品構造によって、ベケットは作品の焦点を「物語」から別のところに合わせようとしていると思っていて。そのときの「別のところに合わせる」っていう部分ですね。その「別のところ」をいかに描くか。描いたらどうなるか。なのでさっきのプロットの話に戻るんですけど、2回繰り返すぞ、中心の不在だぞ、ていうのだけしっかり念頭に置いて書くことにしました。でも、置くだけ置いて、あとは楽しくやろうと思っていたので、「中心の不在でっせ!」って感じの作品ではなくなりました。
──そうした構造を強く描く作品だとしても、面白かったと思います。
そうかもしれません。でも、それは去年「神の子」でやったことなのでもういいかなっていう。ストレートにベケットをやる、ていうのができなかったのはちょっと心残りなのですが、結果的に別のものが出てきたということには可能性を感じていきたいです。
──稽古を見学させていただく中で、ベケットではないもの、ベケットではなくなってしまった別のものという部分について、私はまだよく見えていないのですが、その可能性に実感をつかめていますか?
実感っていうのは?
──つまり稽古を進めていく中で、ベケットをそのままやるのでは出てこなかったような、新しい何かを感じられているのかどうか。
ああ、はい。それはもう稽古の中でもそうだし、書けた段階で「これはもう違うわ」って思いました。僕の表現で言うと、ベケットの血が混ざった中でしっかり書けたって感じなんですが、結果的にベケットでも僕でもない第三の何かが出てきているような感じはします。
──それは素晴らしいですね。
あ、ありがとうございます。
「終わるたびに分かるんですよね。今回の作品はこういうことだったんだ、ていうのが」
──今までの作品の流れをお伺いしたいのですが、いかがでしょうか? これまでの作品との違いや、通じているところなど。
うーん、これは最初からの流れで話させてもらえると話しやすいのですが、亜人間都市としては第1回目の公演で『反透明』というのをやったときに、物語への違和感みたいなのを覚えたんですね。もっと具体的に言うと「ヤマ」とか「オチ」とかがあることについてなのですが。
第1回目の公演『反透明』より舞台写真(撮影:飯田奈海)
具象的な美術、現代口語演劇的な演技体など、現在とは大きく異なるスタイルの作品だった。
僕は物語が大好きで、物語を作る人になろうとずっと思っていたんですね。で、演劇とか始めて、脚本を書くようになったわけですが、だからこそ「ヤマ」や「オチ」があるっていう物語の決まりを重視してたんです。でも、ヤマを作らなきゃいけないから、オチを作らなきゃいけないから、というのでキャラクターを動かすことに、そのとき違和感を覚えて。「しなきゃいけない、なんていうのに縛られて、お前は何を表現できるんだ?」みたいな。
で、演劇の中には「ポストドラマ演劇」っていう言葉があるじゃないですか。それを思い出して、そうか、と。「いま俺がやっているのがドラマ演劇だとしたら、ポストドラマ演劇という次元がこの世界には存在しているのか!」って思って、僕はそっちに行ったほうがいいんじゃないか、少なくともそっちに惹かれているぞ、と思って、2回目の公演に臨みました。
2回目の『サイバネティック、ゴースティック』という作品は、自分で書くのではなくて、人から出てきた話を使おうと思って始めたんですね。ドキュメンタリーっぽくやろうと思って。ただしドキュメンタリーとしては全然上手くいきませんでした。どうしても自分の中には、自分で何かを書きたいという欲望があって、人からもらったものとそれが衝突しちゃうというか。なので結局自分で書いて。作品として、というよりは作り方として、納得いくものにならなかった。
それで、これはダメだなって思って、ちゃんと勉強しようと思って「次は既成作品の演出をやります!」って言って逃げられなくして(笑)、いろいろ戯曲を読みました。岡田利規さんとか平田オリザさんとか、太田省吾、チェーホフ、ベケットとイヨネスコも。とにかく手当たり次第に。それが4回目の『かもめ −越境する−』に繋がるのですが、まあそんな中で3回目の『神(ではない)の子(ではない)』を書き始めたので、「神の子」は不条理演劇の構造を意識して書きました。ただ鳥公園の西尾佳織さんに指摘されて気がついたのですが、結局オチがありきたりなヒューマニズムに陥ってしまっていた、みたいな反省もあったのですが。
で、その次が「かもめ」ですが、「かもめ」は、でも書いていないので……いやまあ書いているといえばいるのですが……。
──『かもめ −越境する−』は「誤訳」という形でテキストレジが行われていましたね。上演を観ましたが、ずいぶん書き換えられていたように思います。
まあ確かにそうかもしれませんが、あまり書いたっていう意識がなくて……つまり演出として書き換えたっていう感じですね。なので、劇作家としては書いていないのだと思います。なので飛ばして5回目、今年3月にやった『声たちの在る』に辿り着くのですが、「声」で僕は初めて「何も考えずに書く」というのをやりました。
──「何も考えずに書く」というのはどういうことでしょうか?
ゴールを設定して、そこに向かって走るような書き方をしなかったというか、起承転結を用意せずに書こうとしたというか、そういうことですね。で、それが相当しんどかった。やっぱりプロットがないまま書く、というのはかなり苦しいのだと思います。なかなか書けなくて、俳優にも迷惑をかけました。でも、その中で書くうちに、「ノリで書く」みたいなことが分かるようになりました。
──ノリで書く……(笑)
はい。音の繋がりで書くというか、イメージの連想で書くというか、そういうことが最終的にはできるようになりました。あれは結構すごい発見だと思っています。なので、あの作品は8部構成なのですが、1部から8部に進むにつれて書き方がどんどん変わっていくっていう不思議な作品になってます。
そんなこんなで、設計図から離れて書くということが分かってきたんですね。それまでは設計図をいかに作るか、っていうことにどーしても囚われていたんですが、でもそこから離れることを、少なくとも自分のコントロールによってできるようになった、ていうのが前回公演の物凄い大きな収穫です。
そして今回の公演では、最初はそこから離れて書くっていうのをやろうと思ってたんですが、それだけで書き切るのは無理だったと。だから、設計図は用意する。それに則って書く。ていうことと、でも一方でそれに縛られない。その狭間を行き来すればいいんだ、っていうこれまた大きな発見の中で、それを目指して、書き切りました。それがこの2年の変遷です。
──その変遷をご自分で明確に把握しているんですね。
毎回そうなのですが、終わるたびに分かるんですよね。今回の作品はこういうことだったんだ、ていうのが。その積み重ねです。だからそれで言うと、今やっていることが何なのか、何ができてて何ができていないのかっていうのは、たぶん今の僕はまだ分かっていないのだと思います。次の公演のときには分かっているのかな。
──なるほど。
いやー、感慨深い。
──(笑) 2年という僅かな間ですが、進歩があったんですね。
進歩というか、最初が何も分からなすぎたんだと思います。誰かに教わるとかいうこともなく、ノリで始めちゃったので。まあでも少なからず成長している実感はあるので、だんだん自信もついてきました。