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『声たちの在る』公演を終えて、長文


最初に言っておきますがこの記事は7000文字以上あってちょっと長いです。

記事を分けるのも面倒だったのでしませんでした。

読ませる工夫なき記事ですが、読んでもらえたら嬉しいです。

 

公演終わりました。

色々ご感想いただけて本当にありがたいです。

画像は作中にてお豆腐食べてる藤井さん(撮影:飯田奈海 )

今回の作品は「声」を、もっと言うと「声との対話」をテーマにした作品でした。「対話」をしかし「一人芝居で描く」というのが作品の主たるコンセプトでした。

私たちは他人の声を、意見を、価値観を聞いて毎日を過ごしてきます。声を聞き続けるのは難しいです。とりわけ自分にとって嫌に思うような声を聞き続けるのは、なかなか出来ることではありません。しかし、その「嫌だ」と感じるのは私たちの身体です。聞き続けるのが難しいのは、身体が「疲れてしまうもの」だからです。

「声」に是非はなくただ「在る」。そして「声」を聞く「身体」もまたただ「在る」。私たちは善悪を考える前に、そうした「在る」ということをまず再確認すべきと思います。そこから始める対話は、たとえ不可能性で満ちたものだったとしても(すれ違ってしまうものだとしても)、もっと別の意義を見出せるもののような気がするからです。

とまあ、そんなコンセプトでした。直接書くとシンプルに書けてしまいますが、まあ当然それだけで作っているわけはないので。とりあえず、そんなコンセプトを持った作品でした。

さて、今作は「自信作デス」と放言してやってました。そこに別に嘘はなかったのですが、お客さんの前に出してみると、やっぱりまだまだだなあと思われました。良かったところを良かったと言っていただけたことをありがたく思うと共に、もっと良くしなければならない部分もたくさん見つかり反省しています。

 

〈考えたこと1〉大きい劇場でやることについて

いつにしてもそうですが、分かりやすいものを作っているわけでないこともあって、「面白い」と言っていただける人がいると共にどうしても「ツマラナイ」「これはダメだ」みたいな反応もいただきます。真摯に受け止めつつも、やりたいことは曲げないようにしてやってきていました。そんな中、今回は賛否がステージ毎で違っていて、結構困りました。なぜかというと、こうなると「作品の良し悪し」と「各ステージの良し悪し」を分けて見ることが出来なくなるからです。

これまでは大抵、どのステージも出来不出来とは少し別のものとして賛否が分かれているので、ネガティヴな反応も冷静に受け止めることができていました。しかしこれが「この回」「この日」で偏ってしまって、「この日のパフォーマンスが悪かったんじゃないか?」と変に焦ったり勘繰ったりしてしまいました。結果としては「やることをやるだけ」というところに落ち着いてやれたのですが、少ないお客さんの前で上演するとこうなる、というのを初めて知りました。そして初めて「大きい劇場で沢山のお客さんの前で作品を上演したい」と思うようになりました。

「沢山の人に見てもらいたい」という思いは当然に持ちつつも、今までは「大きい劇場で公演をやる」ということには、そこまで魅力を感じられませんでした。大きい美術や多くの人数での作品を作りたいとも思わないし、「小劇場双六」みたいな考え方で表現の場を選ぶのも嫌だし、やる劇場はそこまで大きくなくていい、とボンヤリ思っていました。今回、「どらま館」とか「王子小劇場」とかよりもっと小さいギャラリーというスペースで上演したことで、「大きい劇場でやる」というのには「小劇場双六」みたいなこととは全く別の社会的な意義があって、それは価値があって魅力的なことだと初めて感じられました。

お金のこともあるので、最初から上手くはいかないと思います。今後もギャラリーサイズの空間で公演をやることもあるのだと思います。しかし今後は真剣に「大きい劇場でやるにはどうしたら?」ということを考えて、公演を企画していきたいです。

 

〈考えたこと2〉山本さんとのアフタートークについて

これはジエン社の山本さんとのアフタートークで言われ、また感想でいくつか貰ったことですが、とりあえず山本さんの言葉を代表として書くと、「このストイックなお芝居を、例えばふだんは劇団四季を見るような観客が見にくるかな?」ということについて、考えていました。山本さんの言葉の続きは「僕は何か見に来てくれた人のために、〈おみやげ〉を用意すべきだと思っていて、そのために題材を選んだりしないといけないと思う。黒木くんのお芝居はおみやげが少ない」というものでした。

その場でもごにょごにょ反論しましたが、日を置いて改めて色々考えました。

山本さんの意見に対してベタに反論すると、

1.ストイックな芝居だとは思わないし、かなり贅沢な芝居だと思う

2.ふだん劇団四季を見に来るような観客は積極的には見にこないだろうが、別に問題だとは思わない

3.作品の中に〈おみやげ〉を入れるのは嫌だ(それをしてしまうと贅沢さが損なわれる)

という感じです。でもこれはベタに捉えて反論したものです。

メタにその言葉を受け取ると、ここで考えないといけないのは他者性、マネタイズ、そして公共性の問題です。

 

〈考えたこと3〉他者性について

とりあえず1と3について纏めて言いますが、確かに僕は自分のお芝居を実験的な要素を含みながら作っています。それもあって(それこそふだん劇団四季を見るような人からすると)取っつきづらいかもしれません。しかし作品は贅沢なものでしかありえません。なんでって、「実験精神を持って公演を行う」ということを多くの人ができますか? 収益的に不利になるかもしれないのに、お客さんに見捨てられて2度と公演を行えなくなるかもしれないのに、それでも挑戦するということが簡単にできますか? そうした不安に負けるようではできない表現がここにあるというのに、それを贅沢と言わずしてなんと言いましょう。

さらに言えば、「実験する」ことにどれだけ価値があるのか、という風に思う人もいるかもしれませんが、しかし作品とは完成するものでしょうか? どこまでいっても完成するものではなく、その中途で発表するしかないものではないでしょうか? とりわけ演劇において完成とは「公演日が来る」程度の意味しか持たないものではありませんか? 僕は作品制作とはそういうものだと思っているし、その構造に自覚的に作品を作っているにすぎません。僕の好きな演出家のメイエルホリドは、作品を観客とともに作り、上演の旅に演出を変えていました。そうして作品をなんとか完成に近づけていましたが、あるとき観客に「だったら初日に見に行くと損になるじゃないか」と言われ、こう返事をしました。「だが、同志よ、どうすればよいのか。芝居の創造は、われわれ皆が一緒になって作り上げなくてはならないくらい難しいものなのだ」と。

あとは、色々な意味があるのでなんともですが、少なくとも僕は芸術表現とは自分自身をとにかく表す(曝け出す)ものだと思っているので(あとは後述する意味においても同様ですが)、それ以外のことをする気はありません。ベタに〈おみやげ〉という言葉を捉えた時、それは作品にとっては不純物にしかなりえないと思います。なのでたぶんこの先も〈おみやげ〉は入れません。(山本さんは「作品が純粋すぎる」と表現していたので、まあそういう意味で言っていたのだとは思います)。

問題は、こうした価値観を理解してもらうための「配慮」が欠けていること、つまり演出力が足りていないことにあります。これについては大いに反省するばかりで、もっと頑張らねばと思っています。「配慮」というのはどういうことかというと、例えば頼みごとを人にするときに、「お願いします」とだけ言うよりも「こうした事情があるので、お願いします」と理由を添えて頼むと、聞いてくれる割合が増える、という社会心理学の実験結果があります。配慮する、つまり演出するとはそういうものだと思っていて、ある価値観を人に届けるにあたって、その価値観を面白がってもらうためにはどうすればいいか、という工夫を丁寧に組織することだと思います。ストイックに感じられるということは、この贅沢さを届けられていないということで、もっと演出的工夫を組み込んでいかないといけません。これは「見た人が傷つくような表現を避ける」というのと同レベルで必要な工夫でしょう。そう考えた時、「配慮」はまだまだ足りなかったのだろうと思います。

鳥公園の西尾さんとお話しした際に、こうしたことをやはり仰っていて、確かそれは「セクシャルマイノリティを作品にしたことがあるのだけど、実際のセクシャルマイノリティが作品を見て、その人から違和感を覚えた旨を突きつけられた」みたいな話だったはずです。そのことから「他者性について考えないといけない」と思ったそうなのですが、この「他者性」というのが「配慮」するということなのだと思います。誰かに自分のことを理解してもらうために、相手の立場に身を置いて考えてみる。そうした配慮をどれだけ行えるか、というのが作品の質を決めるのだと今では思います。

今作において、僕は観客の視点の誘導を徹底的に考えていました。それはある程度成功したと思っています。今度はそれを観客の価値観において行えば良いのだと考えると、配慮することももっとやれそうな気はしています。もちろん一朝一夕ではいかないことだと思うので、やはり何度も公演を行ない、観客の反応に身を晒し続けないといけません。でも、作品を作り続けることこそが他者性を獲得する最大の方法だと僕は思うので、とにかく表現を止めずにいたいと思います。

 

〈考えたこと4〉公共性と芸術のあり方について

そして2について。劇団四季を見に来るような人たちを動員できれば、確かに観客はもっと膨大かつ雑多なものになると思います。それは大きな劇場でやれることにも繋がる。それが可能なら、確かに僕にとっても魅力的に思えます。しかし、「ジエン社の芝居を見に来る人はジエン社の芝居を見に来るような人でしかない」というのと同様に「劇団四季を見に来るような人は劇団四季の芝居を見に来るような人でしかない」と言えるのであって、究極的に「ありとあらゆる人が来うる作品」というのは作り得ないと思います。そしてその近似値を目指す必要も、僕は全くないと思います。

思想家・哲学者の東浩紀が最近語っていることへの共感から言うのですが、「ありとあらゆる人が見に来うる作品」において、表現は高度に去勢されてしまいます(ここでいう「去勢される」とは、上で書いた「配慮する」と意味は近いですが別物です。しかし「近い」ことを思うと、配慮という言葉を使うのは適切ではないかも)。作っている人がまるで違っているはずなのに、「ありとあらゆる人が来うる」となったとき、同じような作品しか作られない、ということが起こるのです。そこに価値がないとは言いませんが、表現としては、ツマラナイものでしかないと僕は感じます。

東浩紀と演出家の鈴木忠志の対談において、「芸能」と「芸術」の峻別がなされています。ネットで拾ったものから引用させてもらうと、「共同体の利益のために行われるのが教育、文化、芸能であり、共同体を放逐された者によって共同体のあり方を批判するのが芸術」ということです。「ありとあらゆる人が来うる作品」を目指す方向性と、そうでなく忠実に自身を表現することを目指す方向性とがここにあり、僕は明確に後者を、つまり「芸術」を志向しています。

ここで山本さん的には「いやいやでもそんなこと言ってたらお客さん来ないし、演劇できなくなるから、やっぱ〈おみやげ〉は必要じゃない?(意訳)」となるのですが、僕はそうは思いません。

「芸術」は古来からパトロンの元で成り立つものでした。つまり動員によって成り立つものではありませんでした。吟遊詩人や能にしてもそのように保護されていました。それは確かにパトロンという少数の人間の価値基準によって成り立つものなのですが、しかしそのことによってしか共同体を批判することはできず、ここにのみ真の公共性は存在するのだ、というのが最近の東浩紀が言っていることです。そうした考えへの共感もあり、僕は作品とマネタイズは全く別の問題として考えるべきと思っています。

そして実際、作品とマネタイズを分けることは可能だと思います。ていうか実際やっている劇団はありますよね。青年団ってそうでは? 地点にしてもそうですし、東浩紀のゲンロンも、まあそのようにして成り立っています。そうした先行団体のビジネスモデルがあり、僕はそれをなんとか参考にすれば良いのではないでしょうか。「ぜんぜん地点を参考にしてるとは思えないくらい下手だよね」という批判ならいくらでも受けますが、「ウチのビジネスモデルと比べたら全然ダメだね」というのは言われても困ります。

山本さん的には〈おみやげ〉を作品に含めていくことが演劇をやる条件で、それが30歳を過ぎた山本さんの決断で覚悟なのだ思います。確かに〈おみやげ〉を用意することは有効だと思います。ただし僕は、作品外でしかそれをやりません。作品の外でなら、僕はどんな泥臭いこともします。この手を血に染める用意すらあります(半分だけ冗談です)。どんなことをしてでも作品を純粋に保たなくてはならないし、もしそれが叶わないのなら、演劇のために演劇をやるようなことになるくらいなら、ぼくはその時点でスパッと演劇をやめるつもりです(表現の場は必ずしも演劇に限らない。演劇に拘るつもりはさらさらない)。それが僕にとっての覚悟です。なので山本さんと僕とでは考えが違っていて、アフタートークではそのことがよくわかりました。

これは別に山本さんの考えを否定するものではなく、単に「僕とは違う」というだけです。僕は僕の道をいき、山本さんは山本さんの道をいくのです。そして自分の問題意識を後続の人間に(お節介を自覚しながらも)しっかりと伝えることのできる山本さんを僕は尊敬しています。

 

〈考えたこと5〉今後の目標について

さて、僕は作品を純粋に保つためにあらゆることをするつもりだと書きましたが、その「あらゆること」を具体的にして、今後の目標として考えていきたいと思っています。作品を純粋に作ろうと思うと、どうしても分かりやすいものとは違ってきてしまいます。僕はそのことは悪いことだとは思わないのですが、しかし理解してもらうための努力はしなくてはなりません。演出で工夫するとかいう当然のことはさておいて、理解してもらうためにできることとはなんでしょうか? 僕はこのことへについて、3つの解を考えています。

1.とにかく質を高める

2.作品外でも面白いこと言っちゃう

3.仲間を増やしてスゲー感出す

1については言わずもがなですが、質を高めないといけません。ワケワカラン作品にしても「ヘタすぎてワケワカラン」というのと「ワケワカランけどなんかスゴイ」というのでは違っていて、それは感じ取れる人には感じ取れるものです。「ワケワカランけどなんかスゴイ」と思わせるためにはコンセプトを徹底して作れないといけないし、高度な技術が必要になってきます。繰り返し公演を行ったり、人から学ぶことを通して、とにかく僕は「ワケワカランけどなんかスゴイ」と思わせられるだけの技術を身に付けたいと思います。「で、じゃあ具体的に何するの?」という点に答えると、とりあえず僕は「書く力」を身につけたいと思ってます。作家として、社会とクリアに繋がった価値ある作品を書けるようになりたいです。そして公演後に「テキスト」とか「脚本」とか「上演台本」とか言って誤魔化してましたが、ちゃんと「戯曲」として良質な作品を書けるようになりたいです。まあなので、戯曲の研究をやろうかなと。今のところ勉強したいのは、ベケット、イヨネスコ、ハイナー・ミュラー、イェリネク、別役実、岡田利規……等々、「不条理演劇」と「ポストモダン演劇」の作家の作品についてです。何人かの作家の作品は(岡田さんのとか特に)は読んでるつもりなのですが、もっと精密に、ひと作家あたりひと月くらいかけて、作家・作品について評論や評伝なんかの関連書籍も読みながら、俳優の身体を借りたりしながら、より精密に研究できたらいいなと思ってます。あとは並行して、小説での不条理文学(カフカ、安部公房)、ポストモダン文学(ピンチョン!)を読み進めたいし、加えて現代詩の勉強できたらなと。これについてはどう勉強したらいいのかわからないので、オススメの本あったら教えてください。

2(作品外でも面白いこと言っちゃう)について、僕は現代美術家の村上隆の言う「現代芸術を行うものは自作の解説ができなくてはならない(なぜならワケワカランもの作ってるから)」ということに共感しています。アフタートークを行うこともそうですし、公演において常に作品の解説を販売していることもそうなのですが、それ以外の場においても、もっと作品について、演劇について、あるいはそれ以外のことについても、語っていかないといけないなと思っています。そうした解説というかもはや「説得」みたいなことを通してでも作品を面白いと思わせることができるなら、それもアリだと思うのです。なぜなら現代において作品体験とは作品それ自体の体験のみならないことが証明されているから。そして僕自身、人の作品の解説を聞かないと分からないことが多々あるし、それで面白いと思えるようになった作品も沢山あるからです。もちろん作品単独で勝負できないから語っているのだと思われるのはゴメンで、作品単独で勝負できるだけの力を身につけなくてはならないとも思っています。しかし多角的な体験は用意したいと思っています。具体的には、まあツイッターで積極的に面白いこと言ったり、あとはなんとかして演劇外のイベントを開いていきたいなと思っています。ジエン社の山本さんとかもやってたシンココという企画があるのですが(最近動いてませんが)あれは面白い活動だと思っていて、そういうことがしたいです。例えば、1で書いた「俳優の身体を借りて作品を研究する」というのにお客さんを呼ぶとか……ちょっとボヤンとしてますがそんな感じです。

3(仲間を増やしてスゲー感出す)について、「演劇めっちゃ見てる」みたいな人が見て面白い面白い言ってたら、自分が見て面白いと思わなくても「いやきっと面白いと思えない俺が悪いんだ……皆は何を面白いと思ってるんだ……?」って考えませんか? つまるところそれに尽きるのですが、演劇めっちゃ見てるみたいな人、つまり作品の質を見極められると既に評価されている人からの評価を得ることが、多くの人に作品を見てもらい、さらに作品について深く考えてもらうことに繋がるのだと思います。これは権威を利用するということなのですが、この手を血に染める覚悟すらあるとはそういうことです。まあでも「批評家と仲良くなって良い劇評書いてもらって~」とは言いません。それくらいやっちゃうのが正しいのだと思うのですが、それはさすがに。ていうか僕の知っている批評家はちょっと仲良くなったところで言葉を甘くするほどヌルい人たちではありません。まあしかし、「賞」を取ることは目指して良いんじゃないかと思っています。演劇の賞は作品賞、演出賞、戯曲賞とあれこれありますが、とりあえずなんでも良いです。なんでも良いのですが「賞を取るために」では作品を作りません。それは不純だ。1の話にも繋がりますが、とにかく表現し続け、その技術を、そして作品の質を高め、それを一人でも多くの人に認めてもらうこと。認めてもらっていることを「賞」という形で示せるようになること。そのために「賞」を貰えるような機会に関わっていくこと(そうした場所には往々にして沢山の観客がいて、他者性の獲得にも繋がる)。それが今後の目標です。

 

沢山書きましたが、公演を終えて、そんなことを思いました。

今作は「自信作」でしたが、それは「作品に自信があった」というよりは「自分に自信が持てるようになった」という意味での自信作だったように思います。少なからず自分に自信がついて、いま、もっと良い作品を俺は作れる、作りたい! と意気込んでいます。でもマダマダであるのを実感しました。なので自分を鍛え直すのです。どうか亜人間都市に興味を持って、面白がって、応援していただけたら幸いです。

今後とも亜人間都市をよろしくお願いいたします。


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