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東京ノートをめぐる

緩やかな書簡  1

2018/12/15 13:47 黒木洋平

黒木です。寒いですね。

以前お伝えした、往復書簡についてです。

 

亜人間都市の『東京ノート』という作品について、あるいはそれを作るこの場、この集まりについて、それを見てくださる方々に伝えるためのものとして、なにかしらの文章を集めていけたらと思います。そこで集まるものが、中心的な一人の人物によって書かれた一つの言葉ではなく、そこにいる人々による、それぞれの言葉だといいなと思っています。ただ、多くの人は文章を書くのが専門では必ずしもないと思う。少しでも楽に書けるように、直接外に向けて書くのではなく、あくまで私たち自身の間でのやりとりとして、往復書簡のように書けたらいいんじゃないかと思っています。で、まずは企画者なんで僕から、僕が考えていることから書き始めたいと思います。

 

 

なんというか、人は一人では生きていけない、少なくとも僕は一人きりでは生きていないし、他人との関わりの中で生きている。そういう当たり前のことを考えるものとして、表現できるものとして、僕は演劇という集団制作があると思っています。だから、主宰とか演出とかをしていて、あるとき、そのことの重荷であること、作り方にせよ広報の仕方にせよ、まるで「全て私が作りました」みたいな顔をしていなければならないこと、「ならない」なんてことがなかったとしても、少なくともそうするのがスタンダードである世界で生きる負担に気がついて、いろいろ馬鹿らしくなりました。

 

ちゃんと対等である場として、少なくとも僕が自分の等身大でそこにいられて、またそういう風にみんなもいられるような場としての演劇を作れたらと思って、その方法を考えられたらと思って、この『東京ノート』という戯曲を引っ張ってきて、この公演を立ち上げました。

 

けれど、立ち上げてみて分かったけどこれは茨の道でもある。時間も労力もかかるし、なにより関わり方の正解がここにはない。そんなのって当たり前のことだけど。けど「演出論」だの「方法論」だのがあって、そこに「正解」が存在する「ということ」にして関わるほうがずっと楽だった。でもそれってつまり楽してたんだなーこれまでは。そして今、当たり前の苦労を、当たり前に引き受けている。

 

少なくとも、僕は稽古を終えた帰り道には毎度「ああ今日も余計なことを言った、何も見えていなかった、稽古場で俺が一番なってなかった、本当にダメだ」と凹んでいて、その感覚はあれこれ演出の言葉を並べ立てていたころとは違っている。演出家だの俳優だのというような立場を超えて、一人の人間として至らなさを噛み締めていて、その苦さが、少しは等身大で生きられる場に近づいているのかなという証拠のように思えています。ただ、他の人がこの集まりの中で何をどう感じているのかは分からないから、それは知りたい。

 

「人は関わりの中で生きている」「それを表現する」とかドヤ顔で書いておきながらアレだけど、一方で僕は引きこもりだし怠け者だし何もなければ家でずっとゲームしているような人間で、最近もいろんなやるべきことを差し置いてスマブラばっかやっている。心身ともに不健康というのもあって小中高と学校にもほぼ行っていなかったくらいなので引きこもり検定があれば楽に合格できると思うが、だからこそなんで演劇なんてやってるんだろうとも思う。理由を聞かれたら俺は毎度「母親にやってみたらと言われたからノリで始めた」なんて軽口を叩くのだけど絶対に嘘だ。きっと別な理由がある。

 

けど、本格的に学校に行けなくなった中学2年のあの頃ですら、SoftBankの折り畳み式の携帯をぽちぽち押して、当時全盛期だったGREEというSNSで、顔も知らない人とやりとりをしていたのだから、本当に一人きりの世界で生きたいと思っていたのでは決してなかったのだと思う。あそこには例えば学校のような場所にはない別な時間、別な仕方、別な世界が沢山あって、それが魅力的だった。

 

そして今、公演に関わってくれる多くの俳優、スタッフと1本の戯曲を前に、やっぱりそこにそれぞれの別な時間、別な仕方、別な世界があるのを思います。そしてそれに触れて、自分が変化するのを感じます。そして「お客さんは変わるために劇場に足を運んでいる」という稽古場で出た言葉をよく思い出します。僕だって変わりたいのだろう。

 

みんなを呼び集めただけで、別に出演しもしない、何か作るわけでもない俺が、なぜ稽古場にいるんだろうと毎日悩んでいます。ですが、この文章を書きながら少し分かったかもしれません。

 

この制作を通して、最も影響を受け、最も変化する人……もしそういう役割があるのなら、それこそ俺の担うべきものなんじゃないかと思いました。何かするわけではないけれど、誰よりも柔らかく、その場に在る。その役割がなんのためにあるのかはちょっと分からないけれど、なれるかどうかも分からないけど、でも、うん、それを目指してみようかな、と今思いました。

 

「稽古場の座敷童、ただしゲル状」

 

これでいきます。宜しくご査収ください。

 

最初なので長めに書いたけれど、全然短くていい。これの半分もなくていい。そして書き方は返信みたいに書いてくれてもいいし、そうじゃなくてもいい。文章じゃなくて写真とかでもいいかもね。みんなが普段、稽古の内外で感じていることを純粋に知りたいです。いちばんやりやすい方法で構いません。書きたい人いたら書いてくれて構わないんですけど、特にいないときの順番は、まあ明日考えましょう。

2018/12/20 22:59 畠山峻

お疲れ様です。畠山です。皆さまお元気でしょうか?稽古休んでいてすみません。次の稽古は行けるかどうかちょっとキュイの進捗次第でまた黒木くんには連絡します。

 

次俺書きますよーって稽古場で公言したのになんか何を書くべきかとかあんまり考え過ぎたら筆が進まず、何より書くこと決めてから書いていくってのはどうなのよ。決めといた意見の弁明と理路の接続でしかないなそれは。と思いアドリブでキュイの稽古終わりに書いております。難しいなあ。でも誰かに物を伝えるのはいつだって難しいんだ。僕自身が出てきて直接伝えればその際の言い澱みや言い間違いもふくめてみんな話を聞いてくれるだろう。文書には体温がないし、体臭もない。立ち上がる基礎ではあるけど立ち上がった事物ではない。ようなきがする。なんというか今思うこと。稽古場で雄弁が勝ってしまうっていうのはすごく嫌なんだ、俺は。主張はもちろんすべきだけど、主張ってのは文字とか口で発せられた言葉だけではない。「居る」とか「身振り」「立ち位置」も主張だし、それらを豊かなものとして読み取り受け取る能力を高める不断の努力を社会人として僕はしていきたい。2.3ヶ月稽古場にいてこの「東京ノート」の稽古場はそんなことを考えれる結構貴重な場になりそうだと感じております。楽しみにしております。インフルエンザなど流行ってますが皆さまお気をつけて。βカロチンが免疫力高めるのにいいらしいですよ。人参とかいっぱい食べましょう。それではまた。

2019/01/07 16:00 増田義基

みなさま

あけましておめでとうございます。音楽・音響の増田です。11月・12月はなかなかいけなくてすみません、1月から本格参加な気分でいます。よろしくお願いします。

昨日は久々に稽古を見た最初の日なので、書簡しようと思います。昨日見て思ったことと自己紹介などを。

 

昨日は2つの会話が同時にされる場面を初めて見て(P89 2-3-2)、「会話」っていう仕組みを使った形式があって、戯曲が楽譜として定義されてるのを感じました。1つの会話を聴く時間があって、しばらくしてもう一個の会話が入ってくる。で、最初は1つずつ聴けるけど、2つ同時で絶対に声が混ざる。そして一個減って、もう一個がちゃんと聴ける。わかりやすく提示して、提示された会話の構造でシーンを作るようなイメージを受けました。会話のショーケース。

 

というのと、「複数の軸がある演劇を、複数の軸を持ちながら進んでいく」っていう戯曲と制作どちらもの感じ(分散処理とかP2P通信で全体を構築する感じ)が、すごい居心地良いな〜、と思いました。こういう場では、誰かと協力したいところはできるし、逆に1人でやりたいこと、別に能動的に考えたくないというモードの時も、どっちも許容できるゆとりがあって(うまくいえないけど、多様性・共同体としての強固さ・能動性みたいなものを強要しない。けど成り立つ、という感覚)、この作り方で何かが為されたら、自給自足可能な現代村社会みたいなのができるんだろうなと思ってます。

 

普段、僕はパソコンで音楽を作って、映像作品とかインスタレーションの音楽をやる・「園」という劇団で演劇に参加している、などしてます。音楽、一番近いのはエレクトロニカで、最近それを生演奏するバンドを始めました

(こういうの https://www.youtube.com/watch?v=n9v_WGmK1Mo

(こういうの http://l.ead.me/bawsyB)。

音楽は、架空の風景を色んな音だけで立ち上げられたらいいなーと思っていて、環境音を録音したり、パソコンでプログラミングで音を作ったり、弾いたりとかして作ってます。

あと栃木に住んでます。

 

今回は、せっかくこういう複数軸の複数処理な感じなので、音もみんなから音楽を募ったりしながらできたらいいかなーと考えてます。好きな音の話とか。

 

書簡がどれくらいの頻度なのかわからなんですが、とりあえず一旦僕のほうはここらへんにします。それでは〜

2019/01/08 00:50 藏下右京

みなさま

遅くなりましたがあけましておめでとうございます。藏下です。

勢いがないとなかなかこういうのは書けないなーと思いつつ、少し深夜テンションで書いています。

暴走気味のところもあるかと思いますが、お許しください。

 

いま書きながら、増田くんの紹介にあったかさねぎリストバンドを聴いているのですが、これエグいですね・・・

素晴らしすぎて、聴きながら思わずニヤけてしまいました。僕の好みドンピシャなのかもしれません。

好きな音の話でいうと、ジャンルはよくわからないのですが、

アーティスト名でいうとSalyu、Cornelius、Cymbals、ceroあたりがとても好きです。

落ち込んだときや、気を休めたいときはいつも彼ら彼女らの曲を聴いています。

rage against the machineも好きです。ブチ上がりたいときによく聴きます。

あと、脚本に関連していうと、これは完全に僕の案なのですが、串本の演説のシーン(p148-149)で、

不協和音のようなものが入ると面白いのかもしれないと思いました。

自分のシーンではないのですが、思いついたので言うだけ言ってみることにします。

 

増田くんの複数軸の複数処理の話に関連するのですが、最近、稽古場が二つ以上の空間に分裂することが多いです。

そのとき、少し戸惑います。自分はどうあればいいのかと。どうしても、他の人が会話している内容が気になってしまう。

かといってやっぱり他の人の話は聞けないので、目の前の人、目の前の空間に集中しようと思い直す。

でもそれでいいのかもしれないですね。情報過多の稽古場が、いまの現代社会にも繋がるようにも思えます。

自分の立ち位置を見失わず、まずは近くで起きていることを大切にするのが重要なのかなと感じる日々です。

 

さて、これは個人的な話になるのですが、最近「なぜ自分は演劇をやるのか?」という問いを突きつけられることがよくあります。

昨年の12月に25歳になったのですが、何か一つの分水嶺に来ているような気もしています。

もちろん個人的には演劇が好きだからやっているし、自分の居場所といえば演劇だなと直観的に感じるからやっているんだけど、

でもそれだけじゃダメなのかもしれない、と思ったりもするのです。

 

僕は、演劇の良いところは、その遅さだと思っています。

劇場でスマートフォンが使えないなんて、ややもすれば時代遅れな風習です。

でも、逆説的だけど、そこに良さを見出せるのではないか。

スマホをいじってばかりの日常生活からいったん離れて、目の前に起こる出来事と対峙する。

目の前で起こっていることは、その場じゃ理解できないかもしれない。

でも、その経験がふとした時に思い出されて、遅れて自分の身体に効いてくる。

こうした経験ができるのは、いまの現代社会においては演劇ぐらいなんかじゃないと、わりと本気で思っている。

僕は、そうした経験ができる場を、自ら生み出していきたいと、そう考えています。

 

これが自分の暫定の答えなのかなと思います。

みなさんは、なぜ演劇をやっていますか?

もしよかったら、答えを聞かせてください。

よろしくお願いします。

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