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亜人間都市『かもめ-越境する-』​公演レビュー

Vol.6 2016年10月15日(土)~17日(月)

亜人間都市『かもめ−越境する−』

 

作・演出(今作では演出)を務める黒木洋平によるユニット「亜人間都市」は、現在の早稲田演劇においてその実験的な作風で異彩を放っている。生き霊(ドッペルゲンガー)を扱った『サイバネティック、ゴースティック』(2016年3月、早稲田小劇場どらま館)では映像を大胆に導入して舞台上に俳優の分身を登場させ、一方で俳優の身体はチェルフィッチュ『三月の5日間』(2004年初演、第49回岸田國士戯曲賞受賞、2017年にも再演予定)の俳優たちのような、一見したところ発する言葉の内容と関係あるのかないのか分からないだらだらとした動きを見せた。チェルフィッチュ以外にも範宙遊泳ジエン社sons wo: など、影響を受けたであろう劇団の名前をさらにいくつか挙げることもできる。『かもめ−越境する−』(以下『越境する』)は先行劇団からの影響を自分なりに昇華することに取り組んだひとまずの達成として見ることができるだろう。

『越境する』はアントン・チェーホフ『かもめ』の登場人物をトレープレフ、ニーナ、アルカージナ、トリゴーリン、マーシャ、ドールンの6人に絞る形で再構成した作品だ。当日パンフレットからあらすじを引用しよう。

高名な女優の息子であるトレープレフは、恋仲であるニーナを役者として、叔父の敷地内で演劇公演を行った。しかし演劇に新しい形式を持ち込もうとしたとしたその劇は、母・アルカージナとの価値観の違いもあり失敗に終わる。トレープレフはそのことがきっかけとなりニーナとの関係がもつれはじめ、一方ニーナはアルカージナの愛人であるトリゴーリンに惹かれ始める……。

大まかな筋は『かもめ』と同じだが言葉づかいが大幅に変更されており、クレジットには「誤訳 亜人間都市」の表記がある。発話のトーンも含めた言葉づかいは亜人間都市の作品の特徴の一つだ。台本では言葉の切れ目に空白が挿入され、一見したところその言葉の配置は詩のようにも見える。たとえばこうだ。

だめ もう疲れちゃった わたし

わたしは かもめ

や 違う そうじゃない

わたしは 女優 そう

俳優はこの空白で言葉を区切る形で発話する。ほとんど抑揚もなく、半ば機械音声のように言葉が発せられることもあり、上演ではそのリズムが際立って聞こえる。一方、多くの場面でくだけた口語体が採用されており、言葉の理解は極めて容易だ。日常的な言葉と非日常的な発話、そしてギクシャクと繰り人形のように動き続ける身体。乖離(かいり)した要素をギリギリのところで自らにつなぎとめる俳優からは切実さのようなものが滲(にじ)んでいた。それは登場人物たちの抱える他者への希求とも響きあう。

『越境する』が採用した非日常的な発話と身振りはトレープレフが主張する演劇の「新しい形式」と対応しているようにも思える。トレープレフはあらゆる生物の消え去った20万年後の世界を描いた演劇を上演するが、名女優である母・アルカージナをはじめ、ほとんどの観客の理解を得られない。それどころか主演女優のニーナにさえ「あなたの台本はね 演りにくいの」「生きた人間 がいない」と言われる始末だ。この批判は『越境する』それ自体に向けられているようでもある。トレープレフの劇中劇は外枠の『かもめ』が体現する類いの演劇を批判するものとして上演され失敗するが、『越境する』においてはむしろ、「新しい形式」たる劇中劇が外枠を飲み込んでしまったかのようだ。

このような印象は舞台美術によっても強調される。『かもめ』では幕ごとに異なる場所が舞台として設定されているが、『越境する』では全ての幕が同一の抽象的な舞台美術の中で展開される。舞台奥に向かってやや傾斜した舞台は奥に向かうにつれて左右の壁が迫り、全体としては寸詰まりの四角錐を横倒しにしたような形状だ。登場人物たちは極端に誇張された遠近法のフレームの中に置かれているようにも見える。この抽象的な舞台はトレープレフの「劇場」を思わせる。トレープレフの作品に登場する「一つの霊魂」は自らの孤独を語った。『越境する』の俳優たちもまた、同じ舞台に立っている。

ところで、演出の黒木は自ら俳優として出演もしている。演じるのは流行作家・トリゴーリンだ。恋仲になるニーナが彼の書いたメモ通りの運命を辿(たど)ることを考えれば、トリゴーリンもまた『かもめ』の「作者」的な存在であり、演出家がトリゴーリンを演じることはそれほど不思議ではない。しかし「新しい形式」めいた『越境する』の作者たる黒木は同時にトレープレフでもある。俳優たちと同じように、黒木もまた自らの作品に両極に乖離した要素をつなぎとめようとするかのようだ。

実際のところ、『越境する』は演技から感情を排している(ように見える)という点で取っ付きづらさはあるものの、セリフをきちんと聞いてさえいれば筋は十分に追えるという意味では決して「理解不能」な作品ではない。この「セリフをきちんと聞いてさえいれば」という点が重要だ。『越境する』は言葉それ自体に、そしてそれがイメージを生み出すプロセスに焦点をあてている。「ことば、ことば、ことば」とハムレットのセリフが引用されていることからも明らかなように、これは『かもめ』が持つ一側面でもある。トリゴーリンのメモがニーナの運命を予言したように、言葉は人を、そして世界を支配する。それを象徴するのが「かもめ」の存在だ。

第2幕でトレープレフが撃ち落としたかもめのイメージは亡霊のようにニーナに取り憑(つ)き、その後も繰り返し現れることになる。黒木はこのかもめを無数の白いひらがなのオブジェとして登場させた。一部が血塗られた、手のひらサイズの「か」「も」「め」。舞台上にたしかに物質として存在するそれは、しかしどこまでも文字、言葉でしかない。不穏なイメージは舞台空間を満たし、やがて壁の上部からは無数のオブジェが溢れ出る。

奇抜にも見える黒木の演出は、しかし『かもめ』に対する正当な読みに裏打ちされている。言葉に支配されているという点においては俳優たちも、いや、『越境する』という作品も同じだ。俳優の身体、観客の現在とチェーホフの言葉の世界。他者とどうにか出会おうとする孤独の切実さがそこにはあった。

(演劇博物館助手 山﨑健太)

初出:早稲田ウィークリー「【早稲田演劇の今】早稲田小劇場どらま館レビューVol. 6 亜人間都市『かもめ−越境する−』」

2016年11月11日 - https://www.waseda.jp/inst/weekly/column/2016/11/11/19285/ 

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