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東京ノートの

プロセス/カイセツ

4 - 9月

『東京ノート』という戯曲を上演しようと考えた理由はいろいろある。ひとつにはこの作品が「場所」について考えられた戯曲だからだということがある。例えば日本には、たくさんの日本人と、たくさんの日本人以外の人たちが住んでいる。また日本人同士であっても、考えが全く異なる人々がいる。そういう異なる人々の最近はすれ違うような、または衝突するような関係ばかりを目にする。多くの人は「どちらが正しいか」ということでその関係を見ている。けれど僕としては、「異なる人々が同じ場所にいる」ということを考えたかった。関係の起こっているそもそもの足場について。

もしかしたら立っている地平が異なっていて、衝突は起きていないのかもしれない。あるいは実は同じ地平に立っていて、すれ違うことなく手を取り合うことができるかもしれない。私たちの立つ地平について、その「場所」について考えたかった。私たちはいまどんな場所に立っているのか。どんな場所に立ちたいのか。どんな場所なら、人と人はもっと良く関わり合えるのか。そういうことを考えるのに、美術館のロビーという1つの「場所」の設定された、そこでの人々のまさにすれ違いと(小さな)衝突を描いた作品である『東京ノート』はベストな戯曲だった。

「考えたいから」で始めるとはいえ、当然きちっと面白くって魅力的な演劇が生まれてほしい。僕が演劇を観ていて魅力的だと思える瞬間は、目の前の俳優が「いまここで、自分の頭で考えて行動している」ということを感じられるときだ。そういう瞬間には大概、同時にその人の価値観がまるっと現れ、周囲のものとの「距離」が一目にして理解でき、発話される台詞のイメージがダイレクトに伝わってくる。そういう瞬間がたくさんある演劇を作りたいと思った。そういう状態で俳優がいてくれたらいいなと思った。

そのためには、なによりまず信頼が必要だ。「信頼」と例えば僕が他人の口からその言葉を聞いたら、きっとただならぬきな臭さを感じてしまう。でも一方で、今それが必要だと思う。「あなたの価値観を尊重する」と口で言われたところで、本当に尊重されていると思えなければ、相手の心の内を伺ってしまって、自分の意見を素直に言うなんて到底できないだろう。俳優にもスタッフにも、公演に関わってくれる誰しもに自分らしく振舞ってもらうには、「自分の価値観がここでは許容される」という「場」への信頼が必要だった。(それは「私=黒木」への信頼とは異なる)

昨年度の公演の成果で、今年度はどらま館を無料で使用させてもらえることになっていたので、劇場が一番先に決まっていた。で、『東京ノート』をやろうというのが次に決まったのだけど、どらま館の狭さで20人もの登場人物が出てくる『東京ノート』をどう上演しようかと思った。でも別に20人である必要は全くないと思った。むしろ、どらま館に適切な人数で上演すればいいと思った。その人数差は必要性に迫られたものでありながらも、もっと別の意味も感じられる気がした。つまり2019年現在において20人が出演する演劇にリアリティを感じられるのか? ということ。リアリティを感じられる人数、例えば7人とかで上演すれば、それが自ずと初演の1994年と現在2019年との時間の隔たりの表現になる気がした。それで「20人を7人で演じる東京ノート」という大枠を設定してみた。

出演者は、ワークショップを何回か行って、参加してくれた人の中から声をかけてメンバーを集めた。「演技力」とか「経験」の有無は考慮せず、人の話を聞くこと、また人に話をすることにおいて誠実だと思った人の中から、全体のバランスを考えて声をかけた。それで長沼航さん、木村のばらさん、畠山峻さんの参加が決まった。新しい人だけでなく、継続的な関係も大切にできたらと思い、知り合いの俳優から渕上夏帆さん、藏下右京さん、本田百音さんにも参加してもらうことになった。「WSに来てくれた人」と「知り合い」だけで構成するのも受け身すぎる気がして、それらとは全く別ルートで、知り合いというわけでなく、純粋に舞台を見て魅力的だと感じた俳優にも声をかけ、石倉来輝さんに参加してもらうことになった。

照明、美術、音響は、近頃は全くそれらの用いられない演劇をしばしば見かける。個人的な問題意識として、演劇におけるそれらの関係を考えたかった。光も、物も、音も、どうしようもなく舞台に存在する。だったら、無くするよりは有ることの中でそれらを考えたかった。増田義基さんとは以前にそうした問題意識を共有したことがあって、彼なら一緒に考えてくれると思った。また小駒豪さんは照明と美術を両方担当している公演を見たことがあり、そのとき「照明であり美術であるものが舞台上に存在する」というデザインの仕方が、問題意識を共有できると感じて、知り合いづてに声をかけた。

そして宣伝美術の渡邊まな実さんについては、WSに参加してくれたことで出会ったのだけど、実のところ出演のお願いをしていて、真裏で別の作品に出演することが決まっていたため出演はかなわなかったものの何かしらの形で協働できたらと互いに話して今回は宣伝美術で参加してもらうことになった。

 

参加者の大半が今回の公演で初めて関わりを持つ人たちだった。だから最初からある信頼というのには頼れない。今からここから、いちから信頼を作らないといけない。信頼を作るためには、とにかく時間がかかると思っていた。だから稽古は10月から、公演日の3月までおよそ半年の期間と設定した。普通の演劇からすると相当長い期間だが、今になってみると必要な時間だったなと強く思う。

10 - 11月

今回の稽古では、僕は企画者として「最初の人」ではあっても「一番上の人」ではいたくなかった。演出をするにしても自分の中にある「演劇を作る方法」を押し付けたくはなかったので、稽古方法も何も決めないままに稽古に臨んだ。でも方法がないまま何かを作るというのも土台無理な話なので、最初は自分の持っている方法も含めて、みんなの方法を共有してもらうことにした。みんながどんな風に演劇を作ってきて、あるいは演劇を作ったことがない人もいたので、普段どう過ごしているのか? とか、どんな風にものを考えるのか? とか、そういうのをたくさん話した。最初の頃は週1回とかの稽古だったとはいえ10月も11月もずっとそれを行なっていて、つまり自己紹介だけで2ヶ月費やした。

「あそこの演出家からはどういう演出を受けていたの?」とか「この前参加したワークショップでは何をしたの?」とか、いろいろ共有してもらいながら、「こんなやり方があったんだね」と誰かが言っていたのを思い出す。「ワークショップに行くか、出演しないと、その劇団の作り方は知ることができないと思ってた」と。演出についての話を俳優同士で話すことは避けられている節がある。ちょうど政治や宗教の話を避けるみたいに。それぞれの価値観を素直に表明できないのは悲しいことだった。屈託無く演劇の話ができるように、僕も遠慮なく他の現場のことについていろんな質問をした。

 

 

それを通して、少しずつだけどみんな自分の意見を話してくれるようになった? 気がする。稽古の方針も何も決めてはいなかった(考えてはいたけど)から、出演者が、畠山さんだったと思うけど、「そろそろ台本を読んでみたい」と言ってくれて、本読みが始まった。彼が言ってくれなかったら他の誰かが言ったかもしれないが、なんにせよ僕が言い出したわけでない、というのが重要だ。些細ではあるけど、それで公演は少しずつ「最初の動力」以外の力で回り始めた。

そうしようと思っていたわけではなかったが、人生の当たり前のルールとして「自分のことは自分で決める」というルールがなんとなく敷かれた。だから「どの役を演じるか」「どの台詞を言うか」ということも本当はそれぞれで決められたらいいね、と話していた。が、時間の都合もあり、僕が提案して、みんなの合意をもらって、「配役」を僕に任せてもらった。けれどその配し方は「このシーンは、この人とこの人が担当する」というようなアバウトなもので、あくまで自分の役、自分の台詞を選択できる状態を残しておいた。これが11月末日のこと。

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12月

稽古は最初、そのシーンを担当する人たちで戯曲を読んで、他の人が感想を言う、という形で進んだ。20人を7人で演じるので、なんらかの工夫が必要になる。1人2役ということかもしれないし、台詞を削るということかもしれない。その工夫の仕方はなんでもよかった。それよりも工夫してみた結果が大事で、聞いている側からするとどんな風に感じられたか、というのを演じていない周りの人たちが感想として伝えることで、方法に対する感触を確かめていった。

試みの中には「1人の台詞を2-3人で読む」とか「2-3人の台詞を1人で読む」とかそういうものがあった。その中での発見として、「1人で読むと気が重くなり、2-3人で読むと気が楽になる」というのがあった。表現の比重というか、シンプルに視線が少数に偏りすぎると、責任重大になってしまう、ということだと思う。

それはでも、稽古の中でも感じられることだった。7人の稽古参加者がいたとき、他の6人に向けて感想を言う、というのは勇気がいることだった。言葉にすることに自信のない人は、それで考え込んでしまって、上手く感想を伝えられなかったりする。でもそれが4人の中での発言なら、2人の中での発言なら、もう少し気を楽に発言することができるようだった。それを見つけてから、「会話を割る」というのを行うようになった。感想をみんなで話すとき、7人全員で話すのではなく、3人と2人と2人の会話に分割する、というようなものだった。それを見つけてから、あまり発言の得意でない人からも言葉を拾うことができるようになった。


これはやがて「稽古を割る」という風にも応用されて、1つの稽古場のなかで2シーン、3シーンの稽古が同時に行われたりするようになった。『東京ノート』作者の平田オリザさんが用いた方法「同時多発会話」に倣って、これを「同時多発稽古」と呼んだ。僕はそれまで、全ての稽古に参加して全ての演技を観て全ての話を聞いていたが、これが始まってからは「全て見る/聞く」というのが不可能になった。でも、そうして誰かが「管理」している状態から場を解き放つことで、ひとりひとりの自由度は増していった。

あるとき「衣装はどうするのか?」という話が出た。「衣装担当は決めてない。それぞれで自分の衣装を考えるか、誰かやりたい人がいたらその人が衣装担当になってもいいんじゃないか」と言うと、藏下さんと石倉さんが「やりたい」と言った。そういったわけで「服を石倉さん、小物を藏下さん」という形で2人が衣装を考えてくれることになった。

石倉さんは衣装を考えるために、他の俳優に「普段どんな服を着るか、それはどこで買うのか、どんな服は着たくないか」などのヒアリングを行った。この「ヒアリング」という方法が、藏下さんと畠山さんに伝播した。藏下さんもまた小物についてのヒアリングを行い、畠山さんは自分の演じる「木下」という役に対する印象のヒアリングを行っていた。それぞれ自分の持つ方法で作りつつも、他の良い方法は取り入れる、というのが目に見えて行われた瞬間だった。そしてそれは、誰かの指示によって行われたわけではない。

また、宣伝美術の渡邊さんが、12月から本格的にチラシのデザインを始めた。何度か稽古に参加しながら、渡邊さんは「自分1人の考えで作るのではなく、みんなから集めた写真やイラストをコラージュしてデザインする」という方針を立てた。そしてその素材集めを行う際に「かつてパブリックだったが、いまはパブリックではなかったもの」というテーマで募集をかけた。「美術館」「東京」というような『東京ノート』の設定から「パブリック」というワードを抽出したのは渡邊さんの慧眼だと思う。そしてこの「パブリック」という言葉は俳優に、そして美術照明、音楽音響に静かに影響を与えていった。

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1月

年が明けて1月、役と台詞の配置が決まって、演技を作る段階になった。けどそれぞれで誰かが方針を与えてくれるわけではないのでみんな手探りだし、演技の作り方はバラバラなので、混沌とした表現になる。でもその中に表現の「芽」のようなものを見つけることができた。それは表現する側が最初から持っているものであり、しかし観る側が見付けなければ枯れてしまっていたようなかすかな「芽」だ。そうした小さな発見を繰り返す中で、それぞれゆっくりとだが、進むべき道を見つけていった。

ある時、石倉さんが「自分の言う台詞は、戦争に関するものが多い」というのを発見した。また渕上さんが「自分の演じる2つの役は、どちらも戦争に行く人を見送る人というので繋がっている」というのを発見した。2人とも、たまたま配された役・台詞の中にそうした共通項を見つけ、演技の指針にしていた。

そのふたりが真っ先に演技の指針を持てたことについて言えば「たまたま」では全くない。石倉さんも渕上さんも、稽古の最初から主体的に振舞っていた。場の様子を伺うよりも、自分の中に「こういう場にしたい」という意志をしっかりと持てているように見えた。その態度がそれぞれの演技に繋がっている。

逆に藏下さんは合計5役くらいを演じることになるので、もはや共通点を見つけるのは難しいようだった。でも彼はそれを逆手に取るような形で、何かを能動的に表現するのではなく、純粋な器、純粋な媒体として究極的な受動態を目指す、という方針、演技体を発見した。演じ分けを放棄し、投げかけられた台詞に対してただ台詞を返す様を見た音楽・音響の増田さんがふと呟き、この演技体には「出来の悪いアレクサ」という名前が与えられた。悪口のようだがそうではない。「出来の悪いアレクサ」というのは「機械らしからぬ機械」という形で、迂遠的に「人間らしい人間」ということを意味している。(と僕は認識している)

1月後半、出演予定だった木村さんが体調不良で静養することになった。長らく稽古を共にしてきたところを、木村さんの出演が叶わなくなったのはとても悲しかった。それだけに木村さんの抜けたところに、今更ほかの俳優を引っ張ってきて充てがうのも嫌だった。例えそのほうが作品の「完成」のためには良かったとしても、人間を簡単に取り替えの効く存在として扱うことは、この「場」への信頼を損なうことになるし、何より自分の信条として嫌だった。木村さんが10月から考えてくれていたプランを決して無駄にしないで、何らかの形で作品に持ち込むためにも、それを近くで一番よく聞いていた僕自身が出演することにした。

木村さんは元々「集団における権力」についての問題意識持っていた。それに加えて自分の演じる「好恵」という役を通して、日常において働く権力と、それに晒される立場の低い/弱い存在についてずっと考えてくれていた。その考え、演技プランを生かすべく、僕もある種の弱さを持った女性を演じようとした。けれど、上手くいかなかった。僕は男性だし、身長が高い。身体が強さを持ってしまっていて、そのままでは「権力の低さ」を簡単には表現できないのを思い知った。僕は女性にはなれない。知らずに放ってしまっている力を抑えることもできない。それを認めた上で「権力の低さ」を表現するにはどうしたらいいかと考えて、僕は表層的な女性らしさ(巻き髪、色付きのリップ、内股……など)を身体に纏って、それでもあくまで自分のままで、男のままで演じる、という演技をしている。男性であることを隠すことなく、けれど1割でいいから女性にも見えたらいいなと思っている。

(でもこれは表現というよりは、単なる欲望かもしれない。僕はなんとか理解したかった。他者のことを。つまり自分とは異なる存在のことを。権力の暴力に晒される人たちのことを。女性という役割を押し付けられる人たちのことを。そして傍目には見えない苦しみを抱え込んで、ついには体調を崩してしまった木村さんのことを。可能な限り少しでも、理解したかった)

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2月

企画者ではあるが決定権をみんなに手渡してしまっていた僕は、ずっと「演技を見て、何か感想を言う人」をやっていた。その僕が出演することになって、外の「目」がなくなってしまった。演技をしていない出演者は極力外で見るようにしていたが、それでも7人全員が出演するシーンもあるので見逃すものも多くあった。そんな中、制作協力で参加してくれていた冨田粥さんが代わりに「目」になってくれた。慣れない中、見て、感じたことの言語化に努めてくれた。本来の役割としては制作協力で、稽古に参加する必要はない別にところを、たくさん稽古に来てくれて、たくさんの言葉をくれた。いち出演者として、これには本当に助かった。冨田さんは座組みのみんなへのインタビューも行なってくれて、やはり慣れないながらも、しかし繰り返すうちにその場への居方や話の聞き方がどんどん上手くなっていった。

ある日の稽古に照明・美術の小駒さんが美術の模型を持ってきた。「公園」のような空間をイメージしたのだそうだ。それは俳優たちの稽古に影響を受けたものであり、また渡邊さんの「パブリック」というワードに影響を受けたものであり、そして12月から1月にかけて旅に出ていた小駒さんが、旅先のフランスで見たパレ・ロワイヤル中庭の「ビュランの円柱」に影響を受けたものでもある、と話してくれた。あと、舞台の下手奥に鏡張りの四面体が吊るされていた。とても異質でありながら、いろんな見立てが可能な美術だった。「小駒さんも舞台上にいる」と感じられた。

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また、音楽・音響の増田さんもやはり「公共としての音」というところに辿り着いたようで、「学校のチャイム」のような「夕方に響く新世界」のような、「時報」としての音、音楽を作ってきてくれた。そのどことなく懐かしい音楽は、あの商店街とかで見るようなトランペット型のスピーカーを使って流すというので、あの独特の音質が空間に染み渡って、本当に何かの時報のように聞こえるのだった。そしてトランペットスピーカーが物質として存在感を放っているので、やはり「増田さんも舞台上にいる!」と思えた。

シーンの稽古も引き続き進められていた。「1人2役以上を演じなくてはならない」という困難を、役や台詞と距離を取りながら発話する、という形で乗り越えようとする人の多い中で、その距離を縮める方向性で、あくまで「役を演じる」ということを目指していたのが本田さんと畠山さんだった。

本田さんは市原悦子や樹木希林などの女優の演技を参照しながら、コミカルな「おばちゃん演技」を追求していた。とてもユーモラスで純粋に面白いのだが、なによりその「演劇らしい演技」は今回の作品の中ではアクセントを効かせている。また畠山さんは「演技だと思えるものをする」「役作りをする」という目標を稽古開始当初に持ち、それを方針にしていた。かといってストレートな演技を追求し続けるのではなくて、他の方法も柔軟に試しながら「自分は何をすべきか」というのを真摯に考えていた。出演者の中では最年長だが(だから?)他の誰よりも遊び心があった。

長沼さんは、出演者の中では唯一、演劇経験がなかった。もともと観客としてたくさん演劇を観ているようだったけれど、だからといって演技の作り方に精通しているわけでもない。そんな彼がこの「誰かが演出を付けてくれる」というわけではない場に身を投じることになったのだから、その意味で一番苦労しているように見えた。でも彼なりに周りを見ながら、素直に、あるいは貪欲に? 方法を取り込んで、つまり見よう見まねで? 演技に取り組んでいた。しかし見よう見まねというのは、最もプリミティブな演技の方法じゃないだろうか? それが経験がなく、演技法というものを持たない彼に可能な唯一の方法だったのだと思うし、それゆえに彼は説得力を持って立つことができていた。彼の演技はピュアかつワイルドな魅力を放っている。

不運にも、全員が稽古に揃う日がなかなかなく、通しを行うのが遅くなった。なかなか全体像が見えないまま公演日が近づいてくるというのでみんな不安だったんじゃないかと思う。2月後半、初めて通しを行ってみた。とても混沌とした通しになった。でも、ピチピチとした生き生きとした表現のエネルギーだけは満ち満ちていた。それがとても希望に感じられて、他の人が何を感じていたかは知らないけれど、僕はすっかり不安がなくなった。

そして、そこからは早かった。実際、2月が28日までしかなかったのでとても早かったのだけど、それ以上に全員の調整能力が高かった。それはそれぞれで方法の異なる演技に対応し続けることをずっと続けてきたからというのもあるだろうし、全員でコミュニケーションを取り続けてきたからというのもあるだろう。必要なものを互いに伝え合って、迅速に個々のシーンを作品全体の中に収める作業が進められた。

3月

そして3月に入り、気がついたら劇場入りしていた。劇場に入り、美術照明、音楽音響が本格的に加わって、一つの空間が立ち上がった。今日、1度目のゲネを行った。ゲネ終了後の楽屋で、たくさんの会話が行われた。演出家から俳優・スタッフへの一方通行のやりとりよりも、複数の会話が同時に行われた方が、行き交う情報の総量としては圧倒的に多い。それもあってか、劇場に入ってからの対応のスピードはとても速いように感じられた。みんなもう、自分の頭で考えて行動してくれていて、僕は何も言うことがない。企画者とか演出家とか関係なく、ここではただのひとりの人間として等身大でいられた。こんなにも幸せなことはない。明日から本番で、この作品をお客さんに見てもらう。客席にいる人たちもまた等身大で作品に接してくれたら嬉しい。そういう作品を目指したい。終演後、劇場の開放を行う。パンフレットを読んだり、感想を話したりしながら、しばらく劇場内でゆっくりしてもらえたらと思う。「わたしの感じたことなんて」なんて風にはどうか思わないでほしい。高度に批評的である必要は全くない。ただ等身大であってほしい。あなたが感じたこと全てのことを、僕は全力で尊重する。そのために演劇をやっている。

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